祈りの社 岩津天神

毎月25日合格祈願特別祈祷 1、15日病除・健康祈願特別祈祷

岩津天満宮とは

天神様 聖なる岩津山に降り立つ

岩津は聖なる地。六十を越える古墳に眠る古人の慰霊の祭祀を行ってきた場所でした。
岩津の天神様は一条の雷光と共に天神山に降臨され、時代は下り江戸の頃、鎌倉・荏柄山天満宮よりご分霊をお迎えし
「我を四辺眺望の地に祀れ」とのお告げにより、聖地・天神山の頂に祀られました。

京都は風水・四神相応の理(ことわり)により造られた都です。
四神相応とはすなわち、東に青龍、川の流れがあること。
西に白虎、大道があり交通の便が良いこと。南に朱雀、平野や海があること。北に玄武、山や丘陵を有す。
このような風水上最高の地を「四神相応の地」と言いました。

一方、岩津天満宮は、東に矢作川の支流である青木川。
西に古は東海道(現在は国道一号線、そして伊勢湾岸道)。
南に岡崎平野。北に村積山をはじめとする三河北部の山々の中心に御鎮座。
まさにここは、自然の氣が満ち満ちた四神相応の地であったのです。
さらに、熱田神宮と三河国一宮砥鹿神社奥宮を結ぶ線上の中央に岩津天満宮が位置するのも偶然ではありません。

自然の氣溢れる岩津天満宮にご参拝の上、強い霊験と霊威に満ちたご祈祷をお受けください。

創建

天神様 聖なる岩津山に降り立つ

ここ岩津の里には、里の長(おさ)たちのものと言われる古墳があります。
その昔、死者は里よりも高いところに葬られ、死者の霊は次第に浄められ、里を守る祖霊となりました。
多くの古墳が存在する岩津山は、古の人々にとっての聖なる場所でした。

一条の稲光と共に、芭蕉の葉に乗った菅原道真公の御神霊がこの聖なる岩津山に降り立ちました。
菅公の御神霊と土地を守る祖霊が出会い、岩津山は菅公の御神徳と霊気満ち満ちた霊山・天神山となりました。

我を四辺眺望の地に祀るべし
信光明寺
荏柄山天満宮

徳川氏の祖となる松平信光公創建の信光明寺。その22世は一誉上人。
徳川将軍家に縁深い寺の住職として、将軍拝賀のため江戸へ向かいますが、旅の途中、病に倒れてしまいます。
土地の人の勧めで天満宮へ病気回復を心中祈願したところ、病はたちどころに癒え、将軍家への拝謁を無事済ませることができました。
霊験に感謝した上人は、江戸よりの帰途、鎌倉・荏柄山天満宮を参拝し、御分霊をいただき岩津に戻って参りました。

御分霊は信光明寺の観音堂に一旦祀られましたが、ある夜、上人の夢枕に天神様が立たれ「我を 四辺眺望の地に 祀るべし」との御神託を告げられたのです。
こうして岩津山の頂きに神祠が建立され、岩津天満宮が創建されました。
ときに宝暦9年(1759)、この後、信光明寺の布教により、病除けという岩津天満宮独特の信仰がこうして広まって行きました。

中興

人造石を発明した稀代の技術者として、品川弥二郎子爵をはじめ、明治の錚々たる人々に服部長七の名は知られ始めた頃。
明治11年(1878)、39歳の長七は愛知県・岡崎の夫婦橋の掛けかえ工事を請け負いました。この工事は明治天皇ご巡幸を控えての大変重要な仕事でした。
完成直前のある日、長七は夢とも幻ともつかない光に包まれます。神仏よりの奇瑞を感じた長七は一旦工事を止め、霊験あらたかの評判の高い岩津天満宮で工事竣功のための参籠を行うことにしました。満願の朝、長七の夢枕に白衣の老人が立ち、
「夫婦橋の工事には欠陥がある。特に水中を吟味せよ。」
と長七に告げます。
長七は天神様のお告げの通り、全員総掛かりで水中を探したところ、やはり欠陥が見つかりました。昼夜兼行で夫婦橋を完成させ、その誠実無比の仕事ぶりは、長七の名をさらに高いものとしたのです。
この後長七は、国家的な土木事業に活躍の場を広げますが、およそ二十年後再び岩津天満宮と深くまみえ、中興の祖と仰がれるようになりました。

夫婦橋想像図
品川弥二郎公 服部長七翁

「温厚正直で人情に厚く」「心が広く奥深いのが優れている」と師・吉田松陰が評した品川弥二郎は、天保14年(1843)長州に生まれた。
松下村塾の塾生であり、高杉晋作らと尊王攘夷運動に奔走し、薩長同盟の成立にも尽力する。明治維新後は、内務少輔、農商務大輔、駐独公使、枢密顧問官などを歴任、明治17年(1884)、維新の功により子爵を授けられ、その後内務大臣に就任する。
明治10年(1877)、第1回内国勧業博覧会の泉水池工事で服部長七を知り、技術者としての智恵と見識、清廉潔白な人柄に惚れ込み、その後ろ盾となる。
難工事であった宇品築港(明治22年竣工)では長七を励まし続け、宇品の服部邸「日月庵(じつげつあん)」の命名は品川公。また、明治27年(1893)の神野新田築堤記念碑の碑文では長七を讃えた。
明治33年(1900)逝去、享年58歳。同年、勲一等旭日大綬章綬章。

越中立山と天神山
三河布教の折りに岩津天満宮を訪れた大阿闍梨鑁禅師(最前列中央)大阿闍梨の左に立つ童児は岩津天満宮・服部貞弘名誉宮司大正9年頃の撮影

越中(今の富山県)立山は 富士山・白山と並ぶ日本三霊山のひとつです。
ここに立山の山岳信仰の拠点・芦峅寺(あしくらじ)があります。
開山の祖は佐伯有頼。
以来、佐伯家は連綿と立山信仰を伝え守り、明治時代は大阿闍梨・佐伯鑁禪師がその佐伯家を受け継いでおられました。

岩津天満宮は明治の神仏分離により信光明寺の所管より離れ、岩津村の人々によって管理されていましたが、明治12年、火災によって堂宇の全てを失ってしまいました。

丁度この頃、大阿闍梨・鑁禪師は三河で布教をしており、荒れ果てた岩津天満宮を訪れたのです。
霊山・立山で修験の道を究めた師は、天神山に鎮まる御神霊の力や、ただならぬ岩津天満宮の濃密な霊気を感じ、天神山復興を決意されました。

岩津天満宮中興の祖 服部長七翁

この頃、還暦を迎えた服部長七は郷里である碧南・新川に居を構えていました。
この新川の邸宅こそ、大阿闍梨・鑁禪師の三河布教の折の常宿となっていました。
鑁禪師は岩津天満宮の窮状を詳しく語り、その復興支援を長七に頼み込みました。

長七自身神仏への思いがことのほか深く、また夫婦橋工事にまつわる、岩津天満宮での不思議な出来事を鮮やかに思い出した長七は支援の依頼を一も二もなく快諾しました。

単に資金援助にとどまらず、師と共に奔走、途中からは自らも天満宮に住み込み、岩津天満宮の再興におよそ20年に亘る再興事業に残りの人生をすべて注ぎました。
大正8年(1919)、現在に残る拝殿の造営を成し遂げ、岩津天満宮中興の祖・服部長七翁は境内の一隅で帰幽、享年80 歳でした。

服部長七翁
岩津天満宮は、天神様の御神霊鎮まる天神山に、御神徳に導かれた人々が魂を注ぎ築き上げた篤き信仰の場です。